昭和43年10月16日 開教一年記念大祭
親先生御祭主の元にこのように奉仕をさせていただきました。ありがとうございました。筑水連合会、並びに松影会、または隣接教会の御信者の皆さんご参拝を頂きましてありがとうございました。ただ今、親先生から感激こもるように御祝詞を頂きました。先生、御祈念中に心の中に御取次ぎなられた事、それは世襲のものにでもわかるようにお話をせよという事であった、私はそこからお話を頂いたのですけれども、もう本当に( ? )お話を頂きましてあの通りでございますね。私(?)この一年間思います事がありますけれども、もう、お道の信心を頂いておりますもの、まあ、教祖様の御教えを本当に頂く以外にない。それは何十年の信心の中にそれは(?)けれども、もうこれだけはそれをもう痛切に痛感するのでございます。ですから、お互いがですね、どんなに年寄りのものでも、行じられる(?)御教えをお説きになっておられる。
かというてまたそれをだんだん(?)まいりますと、どれほど深いやら広いやら分からん程に広さを深さを感じるのでございます。ですから、広いところへでらなければ深い信心にならなければおかげが受けられんと言うことはない。( ? )ね、ですからあのそれをね、本気で行じる事だと思う。ね。例えば今日親先生の御教えの中に「信心は日々の改まりが第一じゃ」と仰る。ですから本気で改まると言う事にですね心がける事だと私は思うのです。それを心がけないでしょうが。はあー、自分はこんなところがいけない。いや、それを本気で取り組むこと以外にないのです。しかも日々に、日々。ね。お互い、元日の心で暮らせばと。いう御教えでもそうです。本当に元日の心で日が暮れたら大晦日のような心がけで、私共が過ごさせて頂こうという気になりゃ元日の気になりゃ出来る。それを、私共が学ぼうとしないのですから。
ですからもう、信心は詳しくなることはない。ね、深く広く分かることはいらん。ね。その事を、その事を行じる以外にない。ね。例えば、御地内をみだりに汚すなよという御教えをがございましょう、ですから本気で御地内を乱さない事に勤めきったらよいのです。ね。それが神様のお心なのだ。それが神様がお喜び下さる事なのだと思うて御地内をみだりに汚さない事に本気で勤めなければならない。ね。それを勤めていきよりますとね、だんだん、信心が信心を教えてくれます。いわゆる仕事が仕事を教えてくれるように。そして(?)だけではない、けがしておる人があるなら、変わりにわびる。けがして折る人があるなら私が清めようというようにですね、もう、広めていこう。そのためにわびていこうという信心が必ず開けてまいります。
これはもう、信心が信心を教えてくれる。いつまっでん分かりませんち。分からんはず、守りよらんもん。ね。先生のお話だっちゃ耳にたこが出来ること頂よるけれどもそれを守らないところに自分のものになっていかない。ね。ですから、私はいつまでも信心が浅くてはいかん。浅くて良いというというのじゃないですよ。どういう(?)の中でも御教えを頂いていうなら、御地内みだりに汚すなよと頂いたのなら素直にそれを汚さんという気にならせてもろうて、ね、今までみだりに御地内につばを吐いたり、大小便で汚し足りしておった事ははあ、こんな(?)いけないと言う事がまあわけがわからんなりにもそれを守らせて頂きよる。ところがね、神様の仰ることを守るとね、必ず、おかげが受けられるんですよ。これは間違いないのですよ。ですから、それが有り難いでしょう。そうして行くうちにですね、人がぽっと唾を吐くとですね、神様が分からないものが御地内を汚しよりますと。というてお詫びしなければおられなくなってくるのです。ね。そしてそれをね、清める気になるのですよ。もうこれは何処から湧いてくるか頂けれるか分からんけれども、喜びが湧いてくるです。それは教祖様が仰ったことを私共が素直に守るから、神様のお喜びがこちらの心に通うてくるのですよ。それが楽しくなる。というように、これは一つの御教えでもそれを本気で行じること。
ね、そしてそこからも必ず教えられる。聞いた話よりも自分で練り出していった話のほうがほんなこと。ね。私共が何十年間信心させて頂きよっときに、そこに気がつかなかった。お取次ぎを頂きばおかげを頂くのですからね、そのおかげにあぐらをかいておった。ところがそれではやはりおかげで終わってしまいます。お互いが信心を頂きたい。信心を頂くとは教えを守る以外にない。「道という教えに迷う事なかれ 道は教えを踏む他はなし」と仰る。道とは教祖様が教えてくださる御教えを行じる以外にない。それを行じよるとです、天地の大道理がわかってくる。ね。(?)道がここから開けてくる。その道がもうこれは限りなく無尽蔵におかげの頂けれる道が開けてくるのですよ。只、お取次ぎを頂いておかげを頂く、それが10年15年続けておりますというだけではつまらんです。そういう浅い信心ではもう、お取次ぎを頂いてもおかげすらいただけんと言う事になってくるのですよ。ね。私はもう本当に教祖様がね、お道の信奉者、金光様の信者は教祖様が教えてくださる事をそれを私なりに分かればよろしいのですから、難しいことはないでしょうが。
幼稚園なら幼稚園なりに分かればよいのです。ね。大学生なら大学生なりに分かっていけばいいのです。(?)大学生の真似をしなくてもいい。本気で行じればぱっと大学にいけれるて。ね。私はもう本当に一番思います事はね金光様の先生ちゃこげん難しくなっちゃるかと言う事を思います。ほんに難しいです、私(?)本当にできん。( ? )神様金光様の(笑)お許しくださっと思うくらい。もうそれは本当に難しい。もう私のように頭の無い物はてんで金光様の先生はできないです。けれども私の頭になってくださり、手になってくださり、足になってくださるかたがあるから、私で勤まっておるだけ。もう私はおかしな話ですけれどもね、こうして、お祭りを仕えましょ、今まではわがよかごとつかえよった。けれども余所の先生方がこうやって、(?)のように並んでくださって、私もお装束というものを着せて頂いて、さあ、今日は(?)冠が前にこう、装束を着てる(?)あって難しい。ね。また私はいつも副祭主を勤めますから、開扉をしなければなりません。あの開扉の段のあそこまでに行くまでがですね、もう若先生が笑います。もう、何遍それをもう(?)分からんち。夕べもね何回も何回もあの樂に合わせてから稽古をしたんです。ところが今朝はころっと忘れておる。(?)一生懸命、親っちありがたいものですよね。間違うたら向こうから親先生がそっと言うて下さる。
ところがそのいいよなさるその言葉がこちらがわからんと。(笑)(?)耳が遠かろうが。金光様の先生ちゃ難しかち思いますよ。けれどもね、金光様の信心はね、おかげを頂くという事、徳を受けていく道というのは、難しいことはない。ね。それをお互いがお徳を頂く道を歩かないから、お徳を受けさせて頂く道を歩かないから、難しいのです。金光様の信心ちゃ難しいねち。いっちょん難しなか。ところが金光様の先生ちゃ難しか。もうそれはほんに私はいつになったらあの開扉が思うごと出来るようになるだろうかと思いよる。余所の先生はえらいと思う。どげなことでん、覚えとる。それがでけん。それが。ね。それでも何も出来んから、しようがないから、せめてね、せめて私はここに奉仕をさせて頂くと言うことだけに一生懸命。何も出来ない。だから、私は今、朝の三時半にここの控えに出てまいります。
4時からご祈念をさせてもらいます。金光様がね、早く起きる人と遅くおきる、信者が早い遅いにかかわると仰る。例えばこういう御教えを私が本気で行じる気になって今年は三時半に起きるようになったらですね、もう、私が4時のご祈念に1時間かかる。4時のご祈念が終わって私が終わってここに降りてくるときにはもうお広前いっぱいに集まっておる。若先生が五時のご祈念を仕えるときには、もういっぱいです。今までは五時のご祈念にねもう、間に合わん。もう御理解だけ間に合えと。お話だけ聞きゃよかというのが多かった。ところがですね、私がそれを行じる気にならせて頂いたら、誰も( ? )。もうそれこそ、親先生がご祈念をしよござる、あのご祈念を頂きたいというて、もうこれは私は黙って1時間ご祈念、いろんなこと(?)ですから、ただご神前に額ずかせて頂いておるだけです。拍手も打ちません。それでもおかげを受けるです。 ね。ですから難しいことではないです。信心は。金光様の先生は難しか。ね。私も覚えようと思うけれども、覚えられんです。もうこの頃とくにそうです。自分で驚いてしまうほどの私でございますけれども、神様がやっぱりおかげだけは下さるのである。ね。いつもおかげの中にありますから、ありがたいなあ。と、私のようないわば、頭の悪い私にこのようなおかげを下さるから勿体無いなあと思う。この、勿体無いなあと思うから、ありがたいと思うからね、おかげで、いうならば、大地の心とでも申しましょうか、ね、今日も神様のお心を分かるという事はね、天地の心が分かるという事。ね。天地の心でまず大地の心を分から、ご地内をみだりに汚すなよと、例えばそういう御教えを一生懸命行じよりますとね、行じよりますと大地の心が分かってまいります。こちらに通うてくる。理屈じゃない。ね。そして、大地の心とはどういう心かと。大地がどういうような奉仕を私共にして下さってあるかと。ですから、その大地を見習い神習いするほかにない。
ね。どういう汚いものをもっていっても黙って、ね、それを受けぬいていくというのが大地の私は姿だとこう思うですね。いわゆる、先ほどのお話の中にございましたように、甘木の「われよしと思う心」と仰る、あの初代の御教え。久留米の初代の「信心辛抱」ね。ずっと甘木の初代でも、久留米の初代でも大地の心を心として、おいでられたからこそ、あの御教えをもうそれこそ、見事に頂き抜いておいでられた。だからこそ、あの大徳を受けられた。ね。とにかく教えを行じる以外にない。ね。もうそれこそ、馬鹿ほどにおかげを頂かにゃあいけない。
ここにある、お百姓さんがおられます。ね。お百姓さんが畑に肥えをかけたりされるのはこれはもう当たりまえ。(?)この頃聞きよりましたらですね、こう言われるのです。ご地内をみだりに汚すなよというておられる。ね。けれども始めの間はもう百姓が肥やしをかけるのだけはしょうがなかと思いよった。ところがだんだんその事を行じさせていただきよりましたら、先生このようなことが分からせて頂いた。いわゆる、自分の心から練り出す事が出来る。だから、肥やしをかける前にね、神様済みません。ちょっとよけといてください、よけといて下さいと言うてその、肥やしをかけるというわけなんです。素晴らしかねち私は申します。百姓は肥やしをかけるのが当たり前のようになるからいかんと私は思う。済みません済みませんというてその。ね。昨日、一昨日、ある婦人が御用を頂くと言い、バスでやってきた。バスを降りたとたんに転んだ。もう、それこそ大きな体でいやとほどドンデン返しで転んだ。
一番始めに出たことがね、神様お許し下さいということじゃった。神様お許し下さい。私は本当に素晴らしいと思うそういうように日頃の信心の稽古がそんときに一歩だって半歩だって、間違いのないようにです、間違いのないようにそれが受けられるという事がありがたいでしょうが。あー痛ち言うて、言うといてから済みませんじゃもういかんのです。ね。それこそなら自分もそげんしようと思うたっちゃ、そんとき出てこない。日ごろの信心の稽古をしとらんと。ね。神様お許し下さい。これが一番口だ。これが素晴らしかったね。本当に日頃の信心を頂いておってありがたいね。という1日御用を頂いてさあ帰らせて頂いたらどっこい体が動かんごとなった。熱が40度から出てきた。ね。それからふるいが出てきた。それで、近所におられるご兄弟が「あんた金光様金光様ち言うてから怪我をしてから」(?)言われたち。ね。これはご大祭前に神様が修行をさせて下さりよるに違いはない。大祭前に修行をさせて下さりよっと。明日はどげなことがあったっちゃ私は(?)御用に行くけんでというて、一晩中寝られん位に熱があった。けれども、明くる日ご祈念に参ってくる時間になったらもう、すっきりしたおかげを頂いたというて、今日も1日御用を頂いておられます。
ね。金光様のご信心とはね、そういうおかげが頂けれる道なのですよ。ね。ですから、叩かれてからあいたよと言う前に済みませんと、いわゆる(?)をしとらんから、済みません出るのです。ね。お許し下さいがでるのです。そこのところの信心をね、頂いて行きたいと思う。ね。おかげを受けることはお取次を頂いたら誰だっておかげを頂く。金光様のお徳で頂くのだから。だから信心を頂かないけん。ね。信心を頂かせてもらう。そしてその、信心を神様を思い、念じ行じることが楽しくなってくる。「思いださずに忘れずに」ね、とにかく神様を心に思い続けることだと。出来る。そこから、もう、本当に勿体ないほどのおかげが戴けれる。戴けれるからまたありがたくなる。だから、信心がいよいよ信心の奥峨へ奥峨へ進んでいくことが出来る。ね。それに例えばヒントが教えによって戴けれる。ね。自分の心から練り出すもの。出したら教えて頂くもの。それによって、私共の信心がいよいよ、鍛えられお育てを頂いていかねばならんと思うのです。
とにかく、おかげで1年祭をこのようにして、おかげを頂きましたが、ね。神様に対しても本当に相すまん、1年間の間にどれだけの信心がお互いそだったかと。頂いたかと思うと、相すまんことばっかり。おかげのほうだけは頂いておりますけれども、ね、皆さんのお手元に記念品に差し上げております、あれはもう、急に思い立って出来ましたご本でございます。教祖様の神戒神訓それを丁度五十日間だけ、もう、ここで、畳があの真っ黒になる位にね、あの1時から夏の真っ最中に暑い盛りにですね、もう一生懸命(?)私共のほうではご祈念はあんまりよう致しません。ここでは。大祓いでも(?)くらい。けれども、今度の夏の信行期間だけはもう汗ぶるぶるになって皆が一生懸命。若先生が先唱、修行生の先生がここの前に出てきて、そしてもうとにかく畳がじゅくじゅくぬれる位である。だからもうとてもその、この、(?)なるように、(?)私はそれを一生懸命それをここでご祈念、ご結界につかせて頂いてから、まあ、それを汗をびちょびちょになってからお話どん聞くだんじゃないんですよ。ね。もう、ですから私がその二十分の間に私がちょっと、(?)させて頂いた。毎日毎日、あの、一か条づつこれを頂いた。それを黒板に掲示致しました。それがあの、とっておりましたので、それをですね、それをあの、それに、お書物にしていただいたのですけれども、これはまあ、こげなろくそな表現ですし、またあの、だからもう少し分かるよくね、どうかすまいと皆が言うておりました。ところが直そうと思うても直されない。一とこ直したらまた意味が違うごたる感じ。
だからもうそのままがよかろうと言うことでそのまま、してございますから、お分かりにならないところはね、皆さん、もう、繰り返し繰り返しもういっぺん、お尋ねに来てください。ね。たったあの一つの御教えがね、たった3行か5行位で説明できるはずがありません。ね。だから、本当は(?)だからそこの深いところをです、ね、いよいよ分かる為にはこれをもういっちょ皆さんが押してでてきなさらなければ、深いところに触れられない。と言うふうに思うのです。
ご挨拶にかえます。